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惜しみなく、なまなましく、教えよう。教師の体温と共に、手渡し続けよう。常に教室に新しい風を吹かせた大村はま先生に学ぶ「教える」という営み

惜しみなく、なまなましく、教えよう。教師の体温と共に、手渡し続けよう。常に教室に新しい風を吹かせた大村はま先生に学ぶ「教える」という営み

日本の教育界で「伝説の国語教師」と称される、大村はまさん。

昭和20年代から50年代にかけ、現代の「総合学習」の先駆けとも言える独自の「単元学習」を実践し続け、生徒一人ひとりに合わせた手作りの「てびき」を手に、教室へ常に新鮮な風を吹き込み続けてきた。

その風を教え子として直接受け、師の思想を「今を生きる教え」として次世代へ継承する活動を続けているのが、苅谷夏子さんだ。大村はまさんがその生涯をかけて問い続けた「教える」という営みの本質とは何だったのか。苅谷さんに話を聞いた。

写真:苅谷 夏子(かりや なつこ)さん
苅谷 夏子(かりや なつこ)さん
大村はま記念国語教育の会理事長・事務局長

1956年生まれ。東京大学国文科卒。中学時代に大村はまに直接学ぶ。大村の最晩年まで活動を支え、現在は「大村はま記念国語教育の会」理事長を務め、師の思想を次世代へ継承する活動を続けている。著書に『評伝 大村はま』『優劣のかなたに』


言葉を育てることは心を育てることであり、人を育てることである


大村はまは、1906年生まれ。昭和の時代、50年以上にわたって高等女学校や公立中学校の国語教師として生きてきた人です。現在で言う「プロジェクト型学習(PBL)」に近い「単元学習」を昭和20年代から30年以上続けていた、先駆的な実践者としても知られています。

大村の仕事の最大の軸は、「言葉を育てることは心を育てることであり、人を育てることである」という信念でした。国語教師が残した言葉としては分かりやすい平凡なスローガンのように聞こえるかもしれませんが、彼女はおかしくなるくらい本気で、そう思っていたのです。

大村にとって言葉とは、「世界を見るための小さな窓」であり、言葉と出会うことは世界を探検しているようなもの。言葉の解像度が高まれば、世界の見え方が違ってくると考えていました。その言葉を一応知っていて、言えればいいという程度ではなく、より深さや確かさをもって、その言葉がその人のものになるようにしたいという原則を、決してゆるがせにしなかった人だと思います。


「単元学習」は、大村が新制中学の教師になった昭和22年から昭和54年まで続けていたわけですが、その時々の生徒の力や課題、関心や社会状況に合わせて、常に新しい題材でゼロからプロジェクトを練り直していました。それは、単なる自己満足ではなく、常に新鮮な風を教室に吹き込み続けるためであり、大村自身が謙虚であり続けるためでした。

教師という仕事は、毎日毎日子どもたちの前に立ちますよね。もしかしたら「去年と同じことを、同じように、教えているな」と思うこともあるかもしれません。もちろん、例えば算数の四則演算が変わることはないわけだから、それは同じかもしれない。でもそれだけでは、教師の中に新鮮さがなくなります。さも新鮮であるかのように繕うお芝居も大村はできなかった。

だから、自分自身が「今朝のニュース」や「ついさっき起きたできごと」を教材に持ち込むことで、常に新しい風を吹かせようとしていたのです。大村自身も、「この新しい教材をやってみてどうなるだろうか」と心からドキドキ・ワクワクしたまま子どもたちの前に立っており、それこそが、生徒を惹きつける力になると確信していました。

そのおかげで私たち生徒は、普通の公立中学校にいた生徒でしたが、どれほど文化的な、小さな考える人の集団になっていったか。いつも誇らしい気持ちで単元学習を楽しみにしていました。


例えば、「『ことば』という言葉はどのような意味で使われているか」という単元があります。私たちは普段、「ことば」という単語を「なんとなく」理解して使っていますが、それに確かに着目して「はっきりとわかる」感覚を味わわせ、体得させるための授業です。

生徒はまず、国語の教科書一冊の中から「ことば」という単語が出てくる箇所を全て抜き出します。例えば、「なんだって、そんなよそいきのことばをつかうんだね」とか、「顔見知りの間では、いちおうのことばはかわすけれども」などです。すると、生徒の手元には約80枚もの「ことば」の例が集まりました。これらを一枚一枚、手に取って「常に目の前の2つを比べる」という作業を繰り返して分類していくのです。

分類が進むと、生徒はそれぞれの山に共通する意味を、自分なりに見出していきます。「ことば」という単語が持つ抽象性や、文脈によって変化する微細な語感の違いを、言語感覚をフル回転させて感じ取っていきます。そして最終的に、オリジナルの辞書ができあがるわけです。

一見すると膨大で地道な作業ですが、「常に目の前の2つを比べ、自分の頭で考えて分ける」という確実な手順を踏むことで、自力で知的な発見に到達できる仕組みになっていました。そして、結果の正誤を競うのではなく、どのような観点で分類したかという「思考のプロセス」を共有し、検討し合うことで、知的な探究を深めることができたのです。


「惜しみなく」そして「なまなましく」教えよう


大村にとって「教える」とは、上から知識を一方的に流し込むことでは、決してありませんでした。しかし同時に、人と人が、共に生きていくときに携えておくべきものを教えるのなら、「惜しみなく教えよう」と考えていました。さらに、共に暮らし、同じ時代を生き、同じ空気を吸っている者同士、言葉というものを、鮮度の高いもの、あるいは人間らしい温度のあるものとして、「なまなましく教えよう」としていました。

大事なことは、教わる内容の結論そのものではなく、「いかに本気で自分の頭で考えたか」ということでした。

もちろん算数や英語のように積み上げていくことが重要な教科は、知識の習得も重要ですが、特に国語においては、課題に対して「我がこと」として本気で向き合い、自分の頭で考え続け、必死でつかみ取ろうとしていたか。一見すると泥臭いそのプロセスこそが人を育てるのだという信念を、大村は持ち続けていました。


相手は中学生ですが、ごまかしのきかない人間対人間として考えていたところがあったと思います。教師というのは、大きな知の世界を代表する「できあがった人」として上から教えるのではなく、生徒の少し先を「汗をかいて走る先達」だと大村も話しています。

実際、生徒の私たちから見た先生の印象は、手を伸ばせばなんとか届きそうなところを走り、世界には驚きや発見や美しいものや不思議なものが満ちあふれているから、本気でワクワクしながら一緒に探検に行こう!と誘ってくれるような存在でした。

そのために大村は勉強を欠かさない人でした。止まった人にならず、ずっと勉強、研究、考える人であり続けました。そして、子どもたちを前にして、一刻一刻同じ空気、同じ時を共有しながら「今!」という瞬間に、飛びつくようにして「これ!」という言葉と出会わせた。その生きのよさ、なまなましさが、驚きや納得と共に言葉への関心を育て、教室を魅力的なものにしていたと思います。


大村は東京女子大学卒業後、長野と東京で高等女学校の教師をしていましたが、戦中、生徒には「慰問袋」*や「千人針」*を作らせ、学校が工場になる事態まで経験しました。望むと望まざるとに関わらず、誰もが協力せざるを得ない状況で、本当にたくさんの人が苦しい思いをした時代です。

そして敗戦後、占領下の圧政に苦しむかと思ったらそうではなく、「民主主義」を進めるんだという方向になりました。だとしたら、やっぱり言葉だと。

「民主主義」ということを真っ向から捉えて、だとしたら自分はこの時代の国語教師として何をすべきか。子どもたちには何を身につけてほしいのか。そんなことを大村は考え抜いたのだと思います。そしてその結果、自分の考えをきちんと言葉にでき、話し合いができ、もし対立があっても言葉に確かに目を向けることで糸口を見つけていける、そういう人を育てる必要があると確信したのだと思います。

*慰問袋…戦地にある出征兵士などを慰め、不便をなくし、士気を鼓舞するために、中に日用品などを入れて送った袋
*千人針…出征する兵士の武運長久と無事を祈り、女性たちが白い布に赤糸で千個の結び目(玉留め)を縫い付けたお守り


大村の教室では「話し合い」の実践にも力を入れていました。ただしそれは、形式的な議事進行の練習ではありませんでした。彼女が目指したのは、感情に流されない、自分の中にしっかりと根ざした確かな言葉で、粘り強く対話する訓練です。

ある日の学級会で、「学級日誌の備考欄に何を書くか」という議題で話し合いをした記録が残っています。一人の優秀な子が「大きなできごとじゃなくても意味のあるようなことを書けばいい」と何気なく発言し、クラスメイトはなんとなく頷いて、そのまま進みそうになっていました。

そこで大村は「『意味がある』ってどういう意味か分かった?」とあえて割り込みました。大人でも見過ごしてしまいそうなこの一見便利な言葉を、わざわざ取り上げて、言葉の意味するところを問い直したのです。大村教室には、「分からないことは、分からないと言う」風土ができていましたので、その後、生徒たちはその意味をすり合わせることができました。

大村にとって話し合いとは、単なる賛成・反対の攻防ではなく、言葉を介して「より良い道」を共に探る営みであり、このような実践はまさに「なまなましく教えて」もらったことだと今振り返って感じています。


生徒を一人も取り残さず、その子にぴったりの「小さな窓」を開いてみせる


大村にとって、生徒一人ひとりに対応することは「当たり前のこと」だったと思います。40人以上の学級であっても、全体を束ねて見るのではなく、個々を注視する姿勢を貫いていました。それは彼女がクリスチャンの家庭に生まれたことも深く関係していると思います。神の前で、一人ひとりの人間が生きていることを考えると、やっぱり一人ひとりに対応することは外せなかった。

ただそこに座っているだけの子や、投げやりになっている子を一人も出さず、「誰もが何かをつかみ、考える時間を保証すること」が教師としての責任であると本気で信じていました。自分のことを「不器用」だと、自分でも苦笑していましたね。

そうした背景もあり、生徒が「何をどうすればいいか」と途方にくれないよう、個々の状況に合わせた「てびき」を膨大に自作し、思考のステップやヒントを示し続けました。

「あの子ならこの切り口で」と、具体的な生徒の顔を一人ひとり思い浮かべることで、てびきは自ずと形になったといいます。汎用性のあるものではなく「特製」のものでした。生徒を一人も取り残さず、その子にぴったりの「小さな窓」を開いてみせることこそが、大村教育の原点でした。


この質問は、私自身も多くの卒業生に聞いてきたのですが、なかなか答えにくいものなんです。簡単に言えるようなものを教わったわけではなかった。

ただ、かつての教え子の中でも頭の切れるある卒業生にこの問いを投げた際、彼は「あの教室で得たものはOS(オペレーティングシステム)だった」と話してくれました。特定の知識や技術を個別のソフトウェアとするならば、大村教室で授かったのは、それらを動かすための基盤となる「OS」そのものだったというのです。言葉によって世界の見え方(解像度)を変える、基盤としてのOS。そうしたOSを、先生の手を借りながら自らしつらえた。

自分の脳や心が世界とどう接していくのか、何を追及していくのか。そんな一生ものの姿勢を、私たち生徒は体得していったのです。そしてOSは更新されていくものでもあります。それも大事なことでした。


一人一台のデバイスを持つ時代になりましたが、多くの現場の先生は、やっぱり生身の人間として、生徒の前に立っていると思うんですね。

それを生かすということは重大な意味があると思います。教室に大人がいるということを、社会が保障しているわけです。大切なことは、先生自身が「これは本当に大切なんだ」と信じる大事な種を、ご自身の体温と共に、手渡し続けることではないでしょうか。

皆さんが大村のようになる必要はありませんが、少なくとも大村が、「世界を見ようよ!」とおかしいくらい本気になって子どもたちの前に立った、その「熱」が子どもたちを惹きつけていたことは今もはっきりと覚えています。

世界の全てを教えることは無理なことです。大村は、「良い畑を耕して、定着する感覚を教えてやれば、あとは子どもが自分で種を拾って育てていく」と話しています。

興味や関心、その態度が豊かなものになっていれば、教室を出た後も、自分で育てていくことができるでしょう。子どもが一生、自分の力で学び続けていけるように、大切なものを手渡すこと。それこそが、時代を超えて変わらない「教育」の役割ではないでしょうか。

〈取材・文:先生の学校編集部/写真:ご本人提供〉