教えるとは、学びが立ち上がる場をつくること。認知科学が示す「分かる」の正体と、「学習環境デザイナー」としての教師の役割
学び方の選択肢は、ここ数年で広がっている。多様な背景や特性を持つ子どもたちが教室に集い、個別最適な学び、自由進度学習、対話的な学びなど、授業も少しずつ変わり始めている。そんな変化の中で、「教える」という営みは、同じように変わっているのだろうか。
そもそも、教えるとは何なのか。学習科学・認知科学の視点から学びのプロセスと授業デザインを研究し、数多くの学校現場に伴走してきた青山学院大学教授の益川弘如さんは、「教える」とは知識を渡すことではなく、学びが立ち上がる場をつくることだと語る。
人はどのように理解をつくり、なぜ対話が学びを深めるのか。今の時代、教師は何を「教える」存在であり続けるのか。益川さんに話を聞いた。
博士(認知科学)。専門は学習科学、認知科学、協調学習。人が対話を通じて知を構成する仕組みを研究している。週の半分は学校現場に足を運ぶ「現場を歩く科学者」でもあり、先生方と共に子どもたちが対話を通して理解を深める授業づくりや子どもの学びの分析に取り組む。自身の学校嫌いの経験から、学習者が能動的でいられる「学習環境のデザイン」を提唱。著書に『学びのデザイン:学習科学』(編著)、訳書に『21世紀型スキル』(翻訳)など多数。
「分かる」とは、自分の知識とつなげて世界を組み直すこと
ーー認知科学の視点から見た「分かる」とは、どのような状態ですか?
極めてシンプルに言うと、「自分の言葉で説明できるようになること」です。
私たちはつい、「1+1は?」と聞いて「2」と答えられれば「分かった」と見なしがちです。でもそれは、情報のオウム返しに近い。真に「分かる」とは、与えられた情報をそのまま受け取ることではなく、自分がこれまでに積み上げてきた経験や知識と新しい情報を「つなげる」プロセスを指します。
そのつなげ方こそが、その人の「理解」であり、だからこそ「どうしてそうなるのか」を自分の言葉で語れるかどうかが重要になるのです。「2という答えは、こういうことなんだよ」と語れる状態。それが「分かる」ということです。
ーーその「つなげる」プロセスは、自然に起きるものなのでしょうか?
そこが重要なポイントです。実は、「分かろうとする」こと自体がとても認知的負荷の高い作業なんです。だから、子どもが「分かりたい」と思わない限り、そもそも自分の知識とつなげようとしません。そうなると、受動的に受け取っただけの知識は、一時的に覚えられても、長期記憶としては残りにくい。
人の記憶は、リストのように一つ一つ独立して蓄えられているのではなく、いろいろな知識と関連づけられながら、ネットワーク状に蓄えられます。心理学ではこうした知識のまとまりを「スキーマ」と呼びます。新しく学ぼうとしていることが、そのネットワークの中に組み込まれていくと、知識として定着することになります。
逆に言えば、どんなに丁寧に教えても、その子の中でつながりが起きなければ忘れていく。学びが残らないのは、教え方よりも、つながりが起きていないことに原因がある場合が多いのです。
ーー先生が工夫を凝らして説明をしても、子どもがすぐに忘れてしまうのはそのためなんですね。
はい。私たちの研究チームで大事にしている考え方の一つが「知識と理解の社会的構成モデル」です。学びは大きく3つのレベルで捉えることができます。
<レベル1>
学習者が積み上げてきた知識・理解(自分なり・自分事としての経験則・考え)
<レベル2>
相互作用(他者との相互作用を通して自分なりの理解を構成していく段階)
<レベル3>
科学者集団の合意・教科書の内容(学校で教えたい原理原則・科学的概念・考え)
従来の授業では、先生がレベル3の内容を、いかに分かりやすくレベル1に届けるかが重視されてきました。けれど、説明が分かりやすいほど、子どもは「分かったつもり」になりやすい。私たちはこれを「バブル型理解」と呼んでいます。その場では分かった気になるけれど、泡のように消えてしまう理解です。
これを防ぐには、レベル3の内容が、自分の持っている知識や理解とどうつながるのかを、子ども自身が捉え直すプロセスが欠かせません。そこで重要になるのが、レベル2、他者との相互作用(対話)を通して自分なりの理解を組み立てていく段階です。このレベル2のプロセスが働いて、初めて「分かる」という状態が生まれます。
ーーもう少し詳しく教えてください。
子どもたちは、教科書に書かれている内容をそのまま受け取るのではなく、「これって自分の知っているあれと同じようなことかな?」と、自分がこれまでに知ってきた知識と結びつけながら理解しようとします。
そのつなぎ方を、いったん友達に話してみて、「そうそう、そういうことだよね」と返ってくれば、その理解は安心して自分の中に定着していく。

逆に「それ、違うんじゃない?」と言われたら、「どういうこと?」と相手の説明に耳を傾けることになります。このとき子どもが聞いているのは、教科書の内容そのものではありません。相手が、自分の経験や知識とどう結びつけて理解しているかを聞いています。
そうした他者の“つなぎ方”を手がかりにしながら、自分の理解を組み替えていく。このプロセスこそが「分かる」ということであり、「主体的・対話的で深い学び」で言われる深い学びが起きている状態なのです。
他者は、自分の理解を点検する「鏡」になる
ーー最近では「主体的・対話的で深い学び」が強調されていますが、なぜ対話は学びを深めるのでしょうか?
一人での学びには、認知的な限界があります。人は「分かった」と感じた瞬間に、基本的にはそこで思考を止めてしまい、それ以上は深めません。
なぜなら、先ほども触れたように、「分かる」という行為は認知的負荷が高くてしんどいからです。
小さい子どもであればなおさらで、その子が思っているゴールに行き着いたら、基本的には学習は終了してしまうんです。たとえその理解が浅かったり、間違っていたりしても、本人にはなかなか気づけません。ここに対話が入ると、状況が大きく変わります。
ーー対話によって、何が起きるのでしょうか?
共通のゴールに向かって複数人で考えると、自分の考えを言葉にして表明する必要が出てきますよね。「これって、こういうことだよね」と話してみる。すると相手から「本当に?」「それってどういう意味?」と問い返されることがある。この瞬間に、初めて自分の理解を点検し、見直すチャンスが生まれます。
さらに、相手の話を聞くときも、「なぜこの人はそう考えたんだろう」と、自分の考えと比べながら聞かざるを得ません。これがとても重要で、いわゆるメタ認知が働いている状態ですね。
「自分はどこまで分かっていて、どこから分かっていないか」を一人で振り返るのは、人間はあまり得意じゃないんですよ。でも他者がいることで、その点検が自然に、半ば自動的に立ち上がりやすくなるんです。
ーーつまり、他者は自分の理解を映し出す鏡になるということですね。
そうです。対話の中で自分の考えを言葉にし、他者の考えと照らし合わせることで、自分の理解をつくり直していく。
さらに重要なのは、分かってくると次の「分からなさ」が見えてくることです。「ここまでは理解できたけれど、別の場面ではどうだろう?」と問いが生まれ、再び対話が始まる。このような相互作用を、認知科学では「建設的相互作用」と呼びます。

複数の視点が行き交うことで、理解はより汎用性の高いものへと更新され、応用や発展にも耐えられる形になっていく。分からないから話し合い、分かると次の問いが立ち上がる。
この循環は、一人では起きにくく、他者との対話があるからこそ続いていき、深まっていきます。
教師は「伝達者」から「学習環境デザイナー」へ
ーーそうなると、学校の先生の役割も大きく変わってきそうです。
そうですね。学習科学の視点に立つと、教師は「直接教える人」ではなく、学びが立ち上がる場を設計する「学習環境デザイナー」であるべきだと私は考えています。学習環境をデザインするとは、子どもたちが学習材料をもとに考え、対話し、自分の理解を点検しながら、狙いに近づいていける場をつくることです。
大切なのは、教室が賑やかに見えるかどうかではなく、子どもの頭の中で何が起きていそうかを想定し、必要な支援を入れていくこと。その設計と見取りこそが、教師の専門性になります。
最近は先生が教えない授業が注目されていますが、現場では「教えない」がそのまま「放置」になってしまっているケースも少なくありません。ここは本当に危ういと感じています。
「教えない」と「放置」は全く別物です。学習科学では、「どうすれば“教える”という行為そのものを最小化できるか」を本気で問い続けています。
ーー「教える行為を最小化する」というのは、「教えることを止める」ということですか?
そうではありません。大切なのは、「教え時」を見極めることです。学習科学には「タイム・フォア・テリング(Time for Telling)」という研究があり、「いつ教えるのが最も効果的か」が検討されています。
結論はシンプルで、子どもたちの中に「知りたい」という必要感が立ち上がったそのときに教えることです。逆に、子どもたち側の準備ができていない段階で教えてしまうと、教わった内容は覚えられても、自分の知識と結びつかず、バブル型理解になりやすい。
学ぶという行為は、自分の知識とつなげながら考えることです。「インプットしてからアウトプット」ではなく、むしろ順序は逆。考える→話す→行き詰まる→知りたくなる→そこで教える。この流れが、学びを“自分のもの”にしていきます。
ーーでは、先生はどうすればいいのでしょうか?
まず、先生はその単元で「教えたいこと=何を学んでほしいのか」を明確に持つことです。ただし、それを最初から直接教授するのではなく、教えたい内容と、そのゴールの深さをしっかり見据えた上で、子どもたちがそこに向かって考え、対話し、つまずきながら近づいていける学習環境を用意する。
先生の役割は、その設計です。その過程に、必ずしも「教える」という行為が常に入っていなくて良いんです。子どもたちが「もう少しで分かりそう」「これが知りたい」と手を伸ばしてきたときには、そっと教えてあげる。その距離感で学びを支えていくイメージですね。
問いのデザインが「自分ごと」を生み、学びを加速させる
ーーどのような授業デザインが「深い学び」を引き出すのか、具体例があれば教えていただけますか?
私が多くの学校で先生方と一緒に使っているのが、「知識構成型ジグソー法」です。異なる情報の「部品」を持った子どもたちが、対話を通じて一つの答えを導き出していく学習法なのですが、その鍵になるのが、授業の入口に置かれた問いです。
例えば高校の日本史で「城の立地条件」を学ぶ場合、山城や平城の特徴を説明して覚えさせるのではなく、導入でこんな問いを投げかけます。
「あなたが戦国大名なら、どこに城を築く?」
この問いなら、知識量に関係なく、全員が「自分だったらどうするか」からスタートできます。その上で、考えるヒントとして軍事的・政治的・経済的という3つの視点の資料を渡すんです。実はこれらは全て教科書に書かれている内容です。
生徒たちは資料を分担して読み、それぞれが“専門家”として情報を持ち寄り、交換し合う。すると、「山城だと守りは固いけれど経済的には不利だね」「時代が進むと城下町が必要になるから平地がいいかも」といった、単なる暗記ではたどり着けない理解が生まれてきます。

そして次第に、「戦国時代前期、中期、後期で条件が変わってくるんじゃない?」「前期ってどうだったっけ」と、いろんな知識と結びつけたり、新しい情報を友達と交換しながらさらに理解を深めていく。これは、覚えてテストで吐き出す学習とは全く異なるプロセスです。
この授業が成立しているのは、先生があらかじめ「城の立地条件は単純ではなく、戦国大名は時代や状況によって選択を迫られていた」という明確な学びのゴールを持っているからです。だからこそ、この問いを授業の入口に置くことができるのです。
ーーその「問い」を立てるのは、やはり先生の役割ですか?
そうです。よく「主体的な学びだから、子どもが問いをつくることが大事」と言われますが、良い問いは簡単には立てられません。もし問いが立たないと、授業は簡単に崩れてしまいます。
ですので、ジグソー法の授業の場合は、まず先生が問いを渡します。その問いを解決し、分かった先に、次の「分からない」良い問いが自然に生まれてくる。結果として、子ども自身の問いも育っていきます。
だから授業で本当に大事なのは、「子どもたちが問いをつくること」そのものではありません。問いは、自分でつくってもいいし、与えられてもいい。大事なのは、その子自身が問いを持っている状態になること。これだけで学びが「自分ごと」になり、学びへの姿勢は大きく変わります。

ーー益川さんが関わっている学校では、どんな変化が起きていますか?
一番大きいのは、先生が「教え続ける」授業から離れていくことですね。
授業もいい意味で“騒がしく”なります。最初は教室が驚くほど静かで、先生がずっと話している授業が多いのですが、ジグソー法のような授業に変わっていくと、先生が話す時間は1コマ10分以内になるケースが多く、残りは生徒同士の対話か、一人で考える時間になります。

ただ、気をつけないといけないのは、子どもに任せきりになってしまうケースです。グループで話し合っていたり、一人で黙々と作業していたりしても、実際には情報を集めて写しているだけで学びが深まっていない授業をよく見かけます。
本来の自由進度学習や個別最適な学びは、突き詰めるととても良い学びになりますが、中途半端に「任せる」だけでは崩れやすい。先生の側に「どんな学びをしてほしいか」という明確な狙いがあり、その方向に向かっていけるよう、子どもの状態を見取りながら、必要な支援を適切なタイミングで入れていく。そこまでを含めて自由進度だと思っています。
ーー最後に、日々授業づくりに奮闘している先生方に向けて、これからの「教える」で大切なことを教えてください。
人は、教えることが好きです。ただ、教えたからといって、相手が必ず学ぶとは限りません。これからの学校で大事なのは、自分が教えたいことを、どうすれば子どもたちに学んでもらえるのか。そのための学びの場をどうつくるのかという視点だと思います。
一人で学ぶことには、やはり限界があります。少人数での対話活動を取り入れたり、さまざまな学習環境を用意したりしながら、先生は子どもたちの学びを見取り、次の授業づくりへとつなげていく。そのサイクルを、ぜひ大切にしてほしいと思います。
そして、このサイクルを回すほど、教師に本当に必要なのは、教え方のテクニック(How to)ではなく、「何を理解してほしいのか」という教科の核をつかむことだということに、きっと気づくはずです。
教科書に書いてあることを一通り教えるのではなく、単元を通して「何を学んでほしいのか」「そのために、どんな問いや資料、対話があれば、そこにたどり着けるのか」をデザインしていく。そこにこそ、教師の専門性があるのだと思います。
もう一つだけ、大事なことがあります。人は、「学びたい」と思えない限り、本当の意味では学びません。だからこそ、先生が教えたい内容に合わせて、どんな疑問や問いを持たせてあげれば、子どもたちが「学びたい」と思えるのか。そうした子どもの視点に立った教材研究を、これからも続けていってほしいと思います。
〈取材・文:先生の学校編集部/写真:ご本人提供、一部フリー素材を使用〉