子どもへの見立てが変わると、先生のあり方も変わる?先生と臨床心理の、ちょっといい関係
日々、教室で子どもと向き合う中で、「どうしてこうなるのだろう」「何度注意しても、なぜ伝わらないのだろう」と思い悩んだ経験のある先生は少なくないだろう。
「困った子ではなく、困っている子として見る」——そんな言葉もよく耳にするが、実際には、その“見方”をどう持てばよいのか戸惑う。実はこの視点は、臨床心理のまなざしから生まれている。
近年、臨床心理士が学校現場に関わる機会も増えているが、そもそも臨床心理とはどのような視点なのか。先生がそれを知ることで、子どもの見え方や教室はどう変わるのだろうか。教育臨床心理学を研究し、子どもの心の専門家としても活動する岐阜大学教育学部准教授の松本拓真さんに話を聞いた。
※肩書きは取材当時のものです。現在は立命館大学総合心理学部総合心理学科 教授
乳児から青年まで、言葉にならない子どもの声をどのように理解し、支援につなげるかを専門に研究。子どもの心理療法を通して、子ども本人だけでなく、家族や保育・教育現場を含む支援のあり方を探究している。2022年より、子どもを支えるネットワークづくりを目的とした「ここあプロジェクト」を推進。著書に『自閉スペクトラム症を抱える子どもたち』(金剛出版)。
私にとっての臨床心理とは、「スタンダードを広げる」まなざし
ーーそもそも教育臨床心理学とは、臨床心理学とどのような関係にある学問なのでしょうか?
まず整理しておくと、「教育臨床心理学」は、臨床心理学という大きな枠組みの中で、学校や教育現場を主なフィールドとして扱う領域だと捉えてもらうと分かりやすいと思います。
私自身は、特別に「教育用の臨床心理学」を研究しているというよりも、臨床心理のまなざしを、教育という場にどう持ち込めるかを考えてきました。臨床心理にはさまざまな学派や考え方があり、「これが臨床心理だ」と一言で言い切れるものではありません。
ただ、歴史を振り返ると、どこから始まったのかは比較的はっきりしています。「臨床心理学」という言葉は、アメリカの心理学者であるライトナー・ウィトマーが使い始めたものですが、その最初の関心は、書くことや読むことが苦手な子どもたちをどう理解し、どう支援するか、という点にありました。
従来の心理学を適用するだけでは、現場で子どもの役に立てない。そんな違和感の中から、「この現実をどう理解すればいいのか」という問いが生まれ、発展してきた学問だと理解しています。
ーー「臨床」という言葉がつくと、診察・治療を施すようなイメージを持ってしまいます。
「臨床」という言葉は、英語では clinical ですが、語源をたどると、「(死を目の前に)もう治すことも変えることもできない段階で、その人のそばにいる存在」を指していたと言われています。何かを治療するというよりも、その人が最期までその人でいられるように寄り添う存在。その立ち位置が、臨床という言葉の根っこにある意味だと思っています。
そう考えると、臨床は「治療」と言っても、何かを変えることを目的にした関わりではありません。結果として発達が促されたり、変化が起きたりすることはありますが、それはあくまで結果であって、目的ではない。その人がその人としてあることができるように関わる、というところに本質があります。

究極的には、その人が自分自身を知り、「自分はこういう存在なんだ」「こうありたいんだ」と感じられたとき、その内側から生まれる力が、自然と成長や回復につながっていく。臨床心理のベースには、そうした意味での、ある種の楽観的な価値観があるのだと思います。
ですから、「寄り添う」と言っても、ただ一緒にいるとか、味方になるということではありません。何かを教えたり、正しい方向に導いたりするのでもない。その人が自分自身について気づいていけるように関わり続ける、という感覚です。
技術ではなく、スタンスとしての臨床心理を獲得する意味
ーーお話をうかがっていて、臨床心理のまなざしを知ることは、子どもの見方を広げるレンズを増やすようなイメージなのかなと思いました。子どもへの理解の枠組みが広がると、教室にどんな変化をもたらすのでしょうか?
私の研究分野の一環である精神分析の考え方では、最終的なゴールは「症状をなくすこと」ではありません。むしろ大切なのは、その人が自分自身を知り、理解していくことだとされています。
自分を知るということは、マジョリティが向かう方向に対して「自分はそこを目指しているわけではなかった」と気づくことでもあります。そのことに子ども自身が気づいていくのは、とても重要なプロセスだと思っています。
この考え方を教室に当てはめると、先生たちは基本的に「学校らしさ」や「学習指導要領らしさ」、つまり学ぶべきスタンダードをつくり、子どもたちをそこに近づけていく役割を担っています。それは先生のせいではなく、そうしなければ教育が成り立たないからです。
ただ、そのスタンダードに合わせようとする中で、どうしてもこぼれてしまう子が出てくる。その子たちを無理に引き寄せようとすると、「なぜこっちに来ないのか」「なぜあっちへ行こうとするのか」という見え方になってしまいます。

けれども、「別の方向を目指す人もいる」と捉え直せるようになると、見え方は変わってきます。「多様性だから」で済ませるのではなく、その子はどんな世界を生きているのかを考える。
例えば、教室の外に出ていく子どもを、「授業が嫌でサボっている子」ではなく、「30人〜40人の教室が騒がしく、何を言っているのか分からない世界がつらいのかもしれない」と理解できるようになる。
そうした理解が生まれると、先生自身もその子を自分の枠組みの中に含められるようになりますし、子ども自身が「自分はこういう感じなんだ」と理解していくことも助けられていく。その積み重ねが、結果として教室全体の安心・安全につながっていくのだと思います。
ーー臨床心理学には多様な学派があり、「一言では言い切れない学問」とのことでしたが、その中でも揺らがない“コア”のようなものはあるのでしょうか?
最終的に何が残るのかと考えると、私にとってのコアは「自己理解」だと思っています。結局のところ、自分の人生は、自分で見て、引き受けていくしかない。その感覚です。
この考え方の背景には、私が精神分析を本格的に学ぶ前、病院で重度のがんを患う子どもたちと関わった経験があります。私は小学1年生の女の子を担当し、毎週おもちゃ箱を持って病室を訪れていました。その子は初めて会ったときから病状がかなり進行しており、厳しい状況であることは分かっていました。

私が強く心を動かされたのは、その子が遊びを通して、自分の身に起きていることを体験していたことです。私が持っていった箱を「患者さん」に見立て、それを治療する遊びを繰り返していました。当時は、子どもに詳しい説明をしない医療がまだ一般的でした。
けれどもその子と関わる中で、「この子は自分に何が起きているのかを知りたいと思っている」「自分で理解しようとしている」と強く感じるようになりました。どれだけ幼くても、たとえそれがとてもつらい現実であっても、自分の身に起きていることを知りたい、そう願うのではないか。そのことを、彼女から教えられた気がしています。
だから私にとって臨床心理の核にあるのは、どれだけシビアであっても、それはその人自身の人生であり、その人が本当は知り、引き受けたいものがある、という感覚です。そこに寄り添い続けることが、臨床心理における揺らがないコアなのだと思っています。
ーーこうした臨床心理の視点は、学校という場ではどのように役立てられるでしょうか?
難しいところだと思います。過去に「先生にカウンセリングマインドを持たせよう」という動きが強くなった時代がありました。受容や共感を大切にしよう、という考え方自体はとても重要なのですが、それをそのまま学校現場に持ち込んだことで、かえって混乱が生じてしまった。
学校は集団を扱う場です。例えば、一人の子が激しく取り乱しているときに、「つらかったんだね」と声を掛けることは、その子にとっては必要な関わりかもしれません。ただ同時に、物を投げられたり、怖い思いをしたりしている周囲の子がいるとしたら、その子たちの存在もまた守られなければならない。取り乱している子だけをケアする姿は、集団の中では受け入れられないこともあります。
カウンセリングは基本的に1対1で行われ、「評価しなくていい」「授業をしなくていい」という前提のもとで成り立つ仕事です。学校の先生が同じ役割を担おうとすると、どうしても無理が生じてしまう。そうした反省から、現在は「チーム学校」という考え方が広がってきました。スクールカウンセラーやスクールソーシャルワーカーなど、専門家と役割を分担しながら、複合的に子どもを支えていこうという発想です。
私が考える臨床心理は、スタンダードがあることを前提に、その中からこぼれ落ちているものに気づき、「より良いスタンダード」を考えていく立場です。スタンダードを推し進める人は必要ですし、その一方で、「このやり方では入れない人がいますよ」と伝える役割も必要だと思っています。

では、臨床心理の視点が先生にどう役立つのか。私は、「先生は普段は今のやり方でいい」と思っています。ただ、必ず「これではうまくいかない」という瞬間が訪れる。そのときに、「なぜだろう」「なぜこのやり方では難しいのだろう」と立ち止まって考える。その場面で、私たち専門家を使ってもらえたらいい。
そうしたやり取りを通して、先生自身がスタンダードの中で見落としていたものに気づき、視野が少し広がっていく。先生が臨床心理の専門家になる必要はありませんが、「広げる」という経験を重ねていくことで、困ったときに視野を広げる癖が身についていく。その結果として、スタンスとしての臨床心理が、学校の中に静かに根づいていくのだと思っています。
「もしかしたら、別の見方もあるかもしれない」
ーー子どもに対する見方が広がることで、先生自身が楽になる・救われる、ということもありそうですね。
明確にあると思います。私は幼稚園や保育の現場で、まさにその部分に向き合っているのですが、多くの先生は「子どものためなら、どれだけ自分がしんどくなっても構わない」と思い、踏ん張り続けてしまう。その結果、自分が限界に近づいていることにも気づけないまま、頑張り続けてしまうことが少なくありません。
そんな中で、教室に「どう関わっていいか分からない子」がいると、先生はとても苦しくなります。なめられたらいけない、ちゃんと指導しなきゃいけない、叱らなきゃいけないと考える。でも、その関わり方が自分の中でしっくりこない。そのズレを抱えたまま向き合い続けるのは、相当な消耗を伴います。

私が先生と1対1で話すとき、すぐにアドバイスをすることはほとんどありません。むしろ、「先生は、本当はどんな関わりをしたかったんですか?」という問いを一緒に考えます。すると、「本当はあんなに厳しくしたかったわけじゃないんです」「子どもとニコニコ笑い合える先生でいたい」と、ポロッと言葉が出てくることがある。その瞬間、先生の表情がふっと変わるんですね。
子どもへの見立てが変わるというのは、その前に、先生自身の見立てが変わるということでもあります。「この子をどうにかしなきゃ」という視線が、「自分はどうありたかったんだろう」という問いに戻ってくる。そのとき、先生は少し楽になるし、救われる部分もあるのだと思います。
ーー先生と臨床心理は、どのように関わり合うのがよいのでしょうか?
まず大前提として、先生が臨床心理の専門家になる必要はありません。先生は先生でいいし、先生にしかできない仕事があります。理想的なのは、先生が「うまくいかない」「分からない」と感じたときに、臨床心理の専門家と一緒に立ち止まって考える関係です。「この子はなぜこうなっているのだろう」「この関わり方では、なぜ難しいのだろう」。そうやって視野を広げる時間を共有する。
臨床心理は、スタンダードを推し進める立場ではありません。スタンダードがあることを前提に、その中で見えなくなっているものを指し示し、「ここがこぼれていませんか?」と問い返す役割です。先生と臨床心理は上下関係ではなく、役割の違う存在として、そうやって関わり合うのが良いのだと思います。

先生たちの大きな強みは「毎日そこにいる」ことです。子どもたちに日々、コツコツ関われる。それは本当に大きい。臨床心理の専門家が月に一度関わるだけで大きな変化を起こすことは、そう簡単ではありません。
でも、そこで交わされた言葉や視点が、先生や保護者、あるいは子ども自身の中で生き続けていくことはある。その意味で、毎日子どもたちと関わる先生が「もしかしたら違う見方もあるかもしれない」と考える臨床心理のまなざしを知っておくだけでも違うと思います。
ーー臨床心理のまなざしを少しでも知ることで、子どもに対する見方が広がる。そんな視点を、先生方にも知っていただきたいと感じました。最後に、松本さんご自身は、子どもという存在をどう見つめていらっしゃいますか?
やっぱり、「驚き」かもしれないですね。「そう来たか」っていう感じ。思い通りにいってしまったら、正直、あんまりおもしろくないじゃないですか。学校の世界では「価値付け」という言葉がよく使われますが、私はその表現があまり好きではなくて。
価値はもともとあるものでしょ、と思うからです。だから「価値探し」ならいい。その子の中にある、埃をかぶっている宝物みたいなものを、ふーっと吹いてみる。「あ、やっぱりあったな」と気づく。そのくらいの距離感がいい。「あなたのここが宝物ですよ」と誰かに決められるのではなくて、その子自身が自分の価値に出会っていく。
そのプロセスこそが大事なんじゃないかなと思っています。教育臨床心理は、そうした出会いが生まれる場に、自分はどうあるかを問い続けるための視点です。そのまなざしが学校という場に息づいていくことを願っています。
〈取材・文:先生の学校編集部/写真:先生の学校編集部、一部フリー素材を使用〉