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「探究」も「アート思考」も、自分が人生で表現したいことに向き合うこと

「探究」も「アート思考」も、自分が人生で表現したいことに向き合うこと

「探究」学習が教育現場に本格的に導入されようとしている中、ビジネスの世界では、先行き不透明な時代におけるイノベーションの起点として「アート思考」が注目を集めている。

言葉こそ違えど、自らの疑問や興味を掘り下げる「探究」と「アート思考」は同じアプローチであり、それは一生続いていくものであるーーそう語るのは「13歳からのアート思考」の著者である末永幸歩さんだ。

自らもアーティストとして作品に向き合い、美術教師として教育現場で子どもたちと向き合う中で生まれた「問い」や、これからの学びについて伺った。

写真:末永 幸歩(すえなが ゆきほ)さん
末永 幸歩(すえなが ゆきほ)さん
東京都出身。武蔵野美術大学造形学部卒業、東京学芸大学大学院教育学研究科(美術教育)修了。「絵を描く」「ものをつくる」「美術史の知識を得る」といった知識・技術偏重型の美術教育に問題意識を持ち、アートを通して「ものの見方を広げる」ことに力点を置いたユニークな授業を、東京学芸大学附属国際中等教育学校や都内公立中学校で展開している。
自らもアーティスト活動を行うと共に、内発的な興味・好奇心・疑問から創造的な活動を育む子ども向けのアートワークショップや、研修・講演など、大人に向けたアートの授業も行っている。初の著書『「自分だけの答え」が見つかる 13歳からのアート思考』(ダイヤモンド社)が16万部超のベストセラーに。


「13歳からのアート思考」が生まれたきっかけ

——「13歳からのアート思考」がすごい反響ですが、今の率直なお気持ちを教えていただけますか?

2020年2月に出版したので1年が経ちますが、最新で16万部になりました。

本当に心を込め時間をかけて作りあげた本だったので、これほど多くの方に読んでいただき、感想もたくさんいただけて、日々感謝する1年でした。


——末永さんは美術教師という経歴でありながら、「13歳からのアート思考」はビジネス本として、むしろビジネスパーソンに多く読まれた印象があります。

元の原稿は、私が書いたものを出版社に持ち込んだのですが、一人で原稿を書いていたときから、想定はビジネスパーソンというか大人向けだったんです。

中学生にあてた文章ではあったけれども、一番近い読者として実は夫をイメージしていて。30代でいわゆる普通のビジネスマンで、特にアートに興味はない。でも、私の授業を「おもしろい」と一番最初に言ってくれたのが夫だったので、そういう人たちに届けたいなという思いで書きました。


——なるほど。最初から読者はビジネスパーソンだったのですね。

最初に私が考えていたタイトルは「ものの見方が広がるアートの授業」だったのですが、出版にあたり、担当編集の方が「アート思考」という言葉を加えてくださって。

私が伝えたいメッセージとか本質を大切にしつつ、うまい加減でバランスをとってくださいました。

あと、自分でもおもしろいなと思っているのは、「13歳からの」と書いてあることで一見中学生向けの教育書のようですが、帯には「大人が受けたい授業」と書かれていて、3人の大人がコメントしているんですよね。チグハグなのですが、それがまたいいなと。


——美術教師になられたきっかけと、大学院に入られたきっかけを教えていただけますか?

もともと小さい頃から、もの作りや絵を描くことがずっと好きだったんです。

父は今でもイラストレーター兼サックスプレーヤーなのですが、私が小さい頃は油絵で個展を開いたり、パントマイムをしていたりと、あらゆる表現活動をしていました。母もデザインの専門学校出身ですし、生まれたときからクリエイティブな環境があって、私もそういうことが好きだったんですよね。

大学では、絵画中心に何の疑いもなく楽しんで制作をしていたんです。その後、中学校の教員になって数年間働いたのですが、徐々に全く新しいチャレンジをしてみたいなと思うようになって。

あと、教員をやりながらだと絵を描く時間がないんですよね。もう一回制作に没頭したい、という思いが強く湧いてきて、思い切って常勤の職を離れて、大学院で学び直すことにしました。


——大学院に入られて何か気づいたことはありましたか?

大学院は美術教育を専攻し、絵画研究室に入りました。ただ、実際入ってみたら思うように絵が描けなくなっていたんですね。

一度教員を経験して、描くだけの環境から離れたことによって、「そもそもなんで描くんだろう」とか「描いたものはその後どうなるんだろう」等と考えるようになっていました。

「本当に残したい表現って一体何なんだろう」「私にできる表現は何なんだろう」とか考えるようになったら、絵がどんどん描けなくなってしまい、結構悩みました。


——描きたいのに描けない、と。何だかいろいろ考えさせられる経験ですね。

結局、大学院にいた頃は制作に没頭するというよりはいろんなことをしていて。1年間一人でフィリピンとニュージーランドに語学留学に行ったりもしました。

ニュージーランドではワーホリビザも取ったので、バックパッカーみたいに働きながら北から南までいろんなところに行きましたね。周りの人には、せっかく大学院まで行って絵画研究しようと思ったんだから、今さら語学とかじゃなくて、もっと専門性を高めたら、とか言われたりしたんですけど。

でも、そんな風に自由にやりたいことをやっている私を見て、大学院の絵画研究室の花澤洋太先生が言ってくれたんですね。

「あなたが今やっている留学とか絵画制作とは一見関係ないようなものごとは、自分のコップに水をためているようなものだよ」と。

急いで表現しなくても、急いで作品づくりに向かわなくてもいい、自分のコップに水がいっぱいまでたまったら、自然と表現があふれ出てくるよ、と言ってくださって。


——素敵ですね。

その頃から、アートってどんどん作品を作ればいいとか、売れる作家になればいいとか、そういうことではなくて、このコップに水をためている過程というか、たまっている水そのものがアートなんじゃないかって思い始めたんですよね。

つまり「自分は何を表現したいんだろう」ということをずっと考え続けて、探し続けること、それこそがアートなんだと気づきました。


学校現場で感じた違和感

——美術教師のときに感じていた違和感や課題について教えていただけますか?

美術でいうと、やはり評価が作品中心になりがち、ということですね。生徒に対する評価もそうですが、先生への評価も生徒の作品を見ての評価になっていて。

例えば学習発表会とか生徒の展覧会がありますよね。そこでやっぱり見栄えがいい作品とか、生徒の作品をずらっと並べている先生の方が、褒められるんです。先生すごく頑張っていますね、という感じで。

一方で、私のようなアウトプットとしてあまりきれいなものができないような授業だと、なかなか授業の評価がされにくいのかなと思っていました。


——評価する方も分かりやすさを求めてしまうのかもしれません。

学校では、指導の方法もやはり「作品の作り方」が多いと感じています。

例えば「13歳からのアート思考」の中に、マルセル・デュシャンの「泉(※1)」という作品が出てくるのですが、デュシャンは「美術=美しいものなのか?」とか、「アートの常識とは一体何なんだろう?」というような自分の疑問から探究をして、その結果生まれたのが、トイレというもともとあるものをそこに置いたアート作品でした。

既存のものをアート作品にするという意味で、美術用語ではレディ・メイド(既製品)と言われています。

※1:マルセル・デュシャンが1917年に制作した芸術作品。
既製品である男性用小便器を横に倒し、”R.Mutt”という署名をしたものに「泉」というタイトルをつけた。


——はい、衝撃的な作品でした。

そういった経緯でレディ・メイドが生まれたわけですが、学校の授業でレディ・メイドの展開例としてやりがちなのが、「(すでに)あるものを使ってアート作品を作ってみよう」みたいなことなんです。

例えば、今私の手元にペットボトルがありますが、これを何らかの形で加工したり、見方を変えることでアート作品にしてみましょう、という感じです。

でもそれは、デュシャンが自分の疑問から探究して最終的に咲かせた花、その花の作り方をもう一回やるみたいな授業ですよね。

将来美術を専門としていくような人にとっては、「一つの手法」として、これを学ぶことにも意味があるかもしれない。でも、美術と全然関係ない仕事につく多くの人にとっては、「手法」として学んだものは応用できないと思うんです。

そこで、私が行っている授業では、デュシャンが最初に目を向けた「アートの常識って一体何なんだろう?」ということを、生徒たちがイチから考える、ということを授業のテーマに掲げてみる。

そうしたら、最終的な花(=作品)としては、デュシャンが生み出したものと全く違うものが出てくると思うんですよ。

作品ありきではなく、まずは自分が疑問に思ったこと、興味を持ったことから始めてみる。そういう授業の方が大人になったときにさまざまなものごとに応用できるのではないかと思っています。


——先ほどの話の中に「花」の話が出てきましたが、著書の中でもアートを植物に喩えた表現(※2)をされていますが、学校はきれいな花を咲かせる場所ではなく、根を育てる場所であるということですね。

本当にそう思います。そして、それが一番できるのが美術なのかなとは常々思っていて。

他の教科でももちろんできると思うのですが、美術こそ、タネを見つけようとしたり、根を張ったりとか、そこにフォーカスできる授業なんじゃないかなと思っています。

※2:末永さんは、著書の中でアートを植物に例えて下記のように記している。

興味のタネ:自分のなかに眠る興味・好奇心・疑問
探究の根
:自分の興味に従った探究の過程
表現の花
:そこから生まれた自分なりの答え


——学校現場での「探究」と、ビジネスでの「アート思考」は、共通点があるように思えます。

私は探究=アート思考だと思いますね。

実は「アート思考」という言葉を、私はもともと使っていなかったんです。自分自身の大学院での経験から、作品重視ではなく、問いを大切にする授業をするようになりました。

子どもたちにはものの見方を広げ、「自分は一体何を表現したいのか?」について探究してほしいと思って授業をしてきました。


——末永さんとしてはもともと「探究」という呼び方の方がなじみがあるのでしょうか?

そうですね。アート思考の授業を作ろうと思って作ったわけではなく、成り行きでそうなっていったのですが、今考えると、そのこと自体がまさに「アートという植物」みたいだなと思って。

咲いた花は結果として「アート思考」というものだったわけだけれど、はじめから私が「アート思考」という花を咲かせようと思って、そのためにこういう授業をしようと思ってできたわけではないんですね。

自分の興味のタネから探究して考えて授業をしていて、たまたま結果的に咲いた花が「アート思考」であって、それが今、綿毛になっていろんな人のところに飛んでいったのかなという気持ちでいます。


人生をかけて「自分は何を表現したいのか?」に向き合う

——学校の授業に「探究」が意識的に加わることで、どんな変化が起きると思いますか?

今の社会でも、課題は与えられるもので「正解を導き出す方程式」がどこかにあって、それを使って問題を解決していく、みたいな考えが根強いと思うのですが、学校も例に漏れず、教育現場はいまだに一番そういうものが根強く残っていると思います。

テストなんかはその典型的なものですし。回答欄に「私はこう考える」とか、「本当に1+1=2なんだろうか」みたいに書いてもダメで(笑)。

テストの正解って、やっぱり出題者が求める正解にいかに近づけるかなんですよね。

でもこれからの世界は、VUCA(Volatility・Uncertainty・Complexity・Ambiguityの頭文字を取った単語。予測不能な状態を指す)で正解自体がないとか、人生100年時代とか、今ある仕事の半数くらいは将来なくなるとかいろいろ言われていますよね。

そういう世界ではやっぱり自分で問いを作って自分で答えを出すということがものすごく大事になってくると思います。

そのときに、今まであまり良しとされなかった「主観」とか「疑問を持つこと」が重要度を増してくるのではないかと思っています。


——根を作ることや探究することは、学校の授業で終わるものではなく、人生においてずっと続いていくことなのではないかと思います。

本当にそう思いますね。一回花を咲かせればそれでいいや、とかそういうことではなく、アーティストは生涯かけて根を伸ばし続ける人だと思います。「自分は一体何を表現したいんだろう?」と常に考え続け、変化し続ける人なのかなと。

アートという植物のイラストでいうと、花の部分ではなく、根っこの部分こそが目的で。根っこを伸ばす部分が、花をいつか咲かせるための過程とか努力の時間とかそういうことではなくて、根っこを伸ばしている、つまり探究して探し続けている時間が、アートの本質だと思います。

ビジネスの世界でもどこの世界でも、そういうアーティストみたいにあらゆる仕事を自分ごと化して、根っこを張るように楽しんで仕事することはできるのではないかと思いますね。


——最後に読者の方にメッセージをいただけますか?

生徒たちにも、どんなに小さいことでもいいから自分の興味とか疑問に目を向けて、そこを掘り下げていくことが大切だよと言っていますが、これって先生が生徒に上から言うというよりは、私自身もそうですし、先生一人ひとりが自分のタネから根を張っているようなアーティストであるといいのかなと思うんですね。

そうすることで、先生自身が子どもたちを触発するような、一人のすごいおもしろい触発材料になると思いますし、さらに先生自身も仕事を本当に自分ごと化して楽しむことができるのかなと思います。

〈取材・文=橋本 淑子/撮影協力=東広島イノベーションラボミライノ+、HOTEL ANTEROOM NAHA〉


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