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生徒指導をアップデート!「生徒と教員は対等」というマインドセットを

生徒指導をアップデート!「生徒と教員は対等」というマインドセットを

子どもたちの目が輝き、教員も生き生きとはたらく学校現場を作りたい。これが私の夢です。

現在、全国の小中学校には24万人を超える不登校児童生徒がいるとされています。学校に登校している子どもたちの中には「自分には能力がない…どうせできない…」と自分を受容できず、無気力な状態の生徒もいます。そんな実態を前に、教員はどう対応すればよいのでしょうか。

その解決策として、アドラー心理学をベースとした「教員と生徒は“対等”というスタンスでの生徒指導」を提案します。

写真:平本 直樹(ひらもと なおき)さん
平本 直樹(ひらもと なおき)さん
元 公立中学校教員

1988年生まれ。埼玉県の公立中学校に11年間勤務。2021年度末に退職し、現在はスクールサポートスタッフ(SSS)や非常勤講師をしながら生徒と教員にとって“もっと楽しい学校”を目指し、教員の生徒指導の悩みを解決する発信活動をおこなっている。

生徒指導は、教員と生徒の対人関係トラブル?


学校で働く教員が避けて通れない、生徒指導。これがスムーズにできるかどうかで、学級経営や授業の質が決まるといっても過言ではないでしょう。

私は生徒への指導自体は必要だと思っています。しかし実際の学校現場では、本来の教育の目的と照らし合わせて、さして重要でないことで教員が生徒を指導している場面を見かけます。

例えば、靴下の長さの規定、中学生らしい髪形、ヘアゴムの色指定、授業はじめの号令の声の大きさなど。これらは生徒の成長を目的としたものではなく、学校運営の効率化のためという側面が大きいと思います。

なおかつ、「ルールは守らせないといけない」と教員が他の生徒や同僚の目を気にして指導してしまうケースも見受けられます。つまり、「生徒指導」と呼ばれるものの多くは、何かしらの「対人関係トラブル」のようなものとも考えられます。

対人関係トラブルというと、生徒同士のケンカや意思疎通不足による誤解をイメージすると思います。しかし、それらは教員と生徒の間でも生じているのではないでしょうか?


例えば、遅刻が多い生徒に「今後はもう遅刻をしない」と教員が約束させたとします。2日後、その生徒が遅刻をしました。約束を破ったとして教員は生徒を呼び出して指導するべきでしょうか?私は違うと考えます。

その約束を結ぶ際、生徒に断りを入れず、あるいは別の選択肢を考えさせることをせずに一方的に押しつけたのなら、それは指導した教員がコミュニケーションの仕方を間違えているからです。

やるべき指導は、その生徒が遅刻をする原因が何かを一緒に考えて、具体的な改善方法を提案してあげることです。

私は2年前に、心理学者であるアルフレッド・アドラーが提唱した理論「アドラー心理学」について書かれた書籍と出会いました。そこで学び得た「対人関係は縦の関係でなく横の関係であり、人と人とは対等である」という考えのもと、生徒と教員は対等であるというスタンスで学級経営や授業をしてきました。

対等なので、休み時間に友達とおしゃべりをしている生徒に用があるときは、「お話し中、失礼!」と断りを入れてから話しかけるようにしました。

対等なので、私が何か仕事をお願いしたとき、生徒は断ってもかまいません。もし引き受けてくれたら「ありがとうございます!」とお礼をしました。

こうしたコミュニケーションは、職場の同僚間であれば当たり前のことですよね。しかし、相手が生徒となると教員が一方的に会話をさえぎったり、頼んだ仕事をしてくれてもお礼をしなかったり、それどころか「遅いぞ!」と文句を言うことすら起きます。これでは真に良好な信頼関係が築けるとは言えないですよね。

このような主張をすると「生徒から馬鹿にされて指導が入らなくなるのでは?」と心配されそうですが、私の経験から言えば、そんなことはありませんでした。むしろ生徒は、以前よりも私の話に耳を傾けてくれるようになったと思います。人は自分に敬意を持って接してくれた人にだけ、敬意を抱いてくれるからです。


教員が「上」、生徒が「下」の関係で接していないか?


そもそも私は、人間関係に上下は不要だと考えています。相手を敬う気持ちとマナーがあれば十分です。上下関係があると、学校ではどうしても生徒の管理体制が強くなります。生徒が何をするにも教員の許可が必要となり、生徒の自主性はどんどん下がっていきます。

外向的な生徒が多い学校では、教員への反発が出やすくなり、そうでない学校では「どうせ何を言っても聞き入れてもらえない」「全部先生にお任せ」という、無気力な生徒が生まれます。現在の学校現場では、後者が多いのではないかと感じています。管理的な教育からの脱却が必要だと私は考えます。

一方、教員と生徒は“対等”として接するとどうなるのでしょうか。私は指導をするときいきなり怒ったり注意したりするのではなく、いったん生徒の言い分や事情を聴いてから対応することを心掛けていました。すると最後に担任をした学級では、以下のようなポジティブな変化が起きました。


・生徒が本音でしゃべってくれる
・相談対応がスムーズになる。特に進路相談では、本質にせまる話し合いができた
・教員と生徒、生徒と生徒が困ったときに、自然に助け合える
・心理的安全性が確保される


給食のときに私が「あっ!お箸セットを忘れた。誰か割り箸をくださーい!」と言うと、生徒が快く割り箸を貸してくれました。助け合いがある温かい学級の雰囲気がうれしかったです。


授業中の生徒の「私語」や「手遊び」は本当に生徒指導をするべき事案なのか?


授業中に、生徒が私語をしたり、手遊びで教具を触ったりすると困りますよね。授業に一生懸命な先生ほど厳しく注意してしまうのではないでしょうか。

私は理科教員でしたので、実験のような実習を伴う授業をする教員の気持ちは痛いほど分かります。

そんなとき私は、イラっとした気持ちを単に「生徒指導」として処理するのではなく、“いったん自問自答”しました。「私の説明は明瞭端的だったろうか?」「生徒の興味を惹きつける導入や展開だったろうか?」といった感じです。

結果的に数秒間、自分を俯瞰することができ、私の方にも改善点が見つかります。そうやって気持ちの整理ができると、生徒を厳しく注意する必要はなくなり、「目の前に実験道具があったら触りたくなるよね。分かる!でも今は説明を聞いてほしいから、いったん机に置こうか」「話し合いの時間はこの後に用意するから、今は説明を聞いてね!」のように、朗らかに提案や指示をするだけで済むようになりました。

大事なのは、相手に改善を押しつけるのではなく、今自分には何ができるかを主体的に考えて行動すること。つまり、授業中の私語や手遊び解消への有効な手段は、教員による上からの指導ではなく、コミュニケーションの工夫だと気づいたのです。


一人の対等な人として生徒と接する大切さ


コミュニケーションの工夫で必要なのは、生徒に対するそもそもの「マインド」を作り直すことだと思います。

「マインド」とは思考の根っこの部分です。私はその根っこの部分に、教員と生徒は対等という価値観を据えました。そうすることで、以前の私とは異なる方法で、より本質的な指導ができるようになりました。

生徒は教員よりも若く、義務教育を受けている最中です。社会で求められるマナーも習得する途中にあります。しかし、教員よりも身分や立場が下ということはありません。この教員と生徒の関係を私は「学校という同じ標高の山道を歩く仲間」と考えます。

生徒は教員の後ろを歩くこともあれば、先を行くこともある、そんなイメージです。教員が生徒よりも秀でているのは、授業を展開する力や、生徒の成長を促すきっかけをつくり、支援する力です。それ以外の部分では、それぞれに得意とすることや好きな分野があり、教員と生徒で上下の関係を作る必要はないのです。

このように考えると、生徒一人ひとりを尊重し、敬意を持つことは自然なことです。対等な一人の人として信頼関係を築いたその先には、子どもたちの目が輝き、教員も生き生きとはたらく学校現場が待っていると信じています。そんな素晴らしい学校現場を一緒に作っていけたら幸せです。