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深い学びって何だろう?授業に「参加」していること自体を「学習」と捉える寛容さを

深い学びって何だろう?授業に「参加」していること自体を「学習」と捉える寛容さを

主体的・対話的で「深い学び」の実現が求められていますが、「深い学び」って何だろう?そう思ったことはありませんか。

私たちは高知県の私立中高一貫校で教員をしています。私たちも、日々の授業における生徒の反応から「深い学び」を提供できているのかと、漠然とした不安を感じることがあり、探究を重ねてきました。すると、そもそも「深い学び」とは何なのか?という問いに直面。

そこで私たちは、「問い」と「ワークショップ」の専門家であるMIMIGURI代表取締役Co-CEOの安斎勇樹さんにお話を伺うことにしました。

写真:安斎 勇樹(あんざい ゆうき)さん
安斎 勇樹(あんざい ゆうき)さん
株式会社MIMIGURI代表取締役Co-CEO/東京大学大学院 情報学環 特任助教

1985年生まれ。東京都出身。東京大学工学部卒業、東京大学大学院学際情報学府博士課程修了。博士(学際情報学)。ウェブメディア「CULTIBASE」編集長。企業経営と研究活動を往復しながら、人と組織の創造性を高めるファシリテーションの方法論について探究している。主な著書に『問いのデザイン:創造的対話のファシリテーション』、『問いかけの作法:チームの魅力と才能を引き出す技術』、『リサーチ・ドリブン・イノベーション』、『ワークショップデザイン論』などがある。


深い学びは、「起こす」ではなく「起きる」

——さっそくですが、ズバリお聞きします。安斎さんは、「深い学び」をどのように捉えていますか?

それを考えるにあたって、まずは「浅い学び」とはどのようなものかというところから考えてみたいのですが、私が思う「浅い学び」とは、簡単に起こすことができて、 簡単に消え去っていくものだと捉えています。

例えば、今日何かを暗記したとしても明日には忘れてしまっているような学びや、ネットでゲームの攻略法を検索してゲームをクリアしたらもう使わない知識になってしまうようなものは「浅い学び」だと思うんですね。

お話を伺った安斎勇樹さん

このように、他の場面に適用されずにそのときやその場限りですぐに消失してしまうようなものが「浅い学び」だと考えると、「深い学び」はその逆で、容易には起こらないけれど、一度起きたらその学習者の中に深く長く残り続けるものだと言えるのではないかと考えています。

学習科学の分野で、ある状況で獲得した知識を別の場面や状況に関連づける「転移(トランスファー)」という概念がありますが。この転移が引き起こされる可能性があるような学びを「深い学び」と捉えています。


 ——とても分かりやすいです。

「浅い学び」から「深い学び」に深化することによって、学習者がどう変容するかを分かりやすく示した図があるので見てください。

「浅い学び」と「深い学び」の違いとは?

青色が「浅い学び」、オレンジ色が「深い学び」を表していて、「浅い学び」の方は、行動「を」変える、情報「を」記憶するなどのように、学習者の意志で学習の対象をコントロールできる、つまり能動的に「自分で変えることができる」レベルを表しています。

一方で、「深い学び」になるにつれて、ものの見方「が」変わる、価値観・信念「が」変わる、と変化していき、学習者の意志によって学ぶものをコントロールできない、つまり「自分で変えることができない」レベルになっていきます。

かといって、他人から「変えられる」受動的な状態でもない。では何かというと、受動態と能動態の間の「中動態」という状態です。

例えば誰かに「あなたのものの見方を変えなさい」と言われても、簡単に変えられるものではないですよね。それは能動的に「変える」ものでもなく、受動的に「変えられる」ものでもなく、何かのきっかけがあって中動態的に「変わる」ものです。

このように、中動態的に立ち上がってくる変容が、「深い学び」の特徴なのではないかと考えています。


——なるほど。自分で「変える」ものではなく、誰かに「変えられる」ものでもないとしたら、「深い学び」が起きるプロセスとはどのようなものなのでしょうか?

まず、自分がどういうものの見方をするのか、どういう価値観を持っているのかといった、ものごとを理解する枠組みとなる暗黙の前提みたいなものを、メタ認知(自分の認知を認知すること)する必要があります。

でもそれはすごく難しくて、『問いのデザイン』という本の中で「無自覚のうちに皮膚に蓄積した垢のように自覚されない認識は“こすり落とす”ことでしか気づけません」と書きましたが、垢がたまっているかどうかなんて自分では気づかず、「垢すり」をされて初めて分かりますよね。

この「垢すり」にあたるのが、自分がすでに立っている足場や前提が揺さぶられるという体験なのかなと思います。垢がたまっているかどうかには気づけないけれど、自分で垢すりに行くことはできる。他者がその人の垢をこすり落としてあげることもできる。

そういう意味では、自分の立っている足場がどんな場所なのかをメタ認知しようと能動的に努力することはできるし、外側からも支援することはできます。

そうして生まれた“揺さぶられる体験”によって、無自覚だった自分の行動や認識の癖に気づき、ものの見方や価値観が「変わる」。これが「深い学び」が起きるプロセスだと考えています。


「深い学び」の方が偉いわけではない

——他の人が垢すりをしてあげられるように、「揺さぶる」ということは外側からも支援可能だということですが、具体的にどのように支援したらいいのでしょうか?

日常の凝り固まった価値観やルーティーンに揺さぶりを与えてくれるのに効果的な学習スタイルが「ワークショップ」だと思い、探究し続けています。

ワークショップというと、グループワークをイメージしたり、模造紙や付箋や色鉛筆を使ってカラフルに行う風景を思い浮かべる人が多いと思いますが、そのような形式的なものではありません。

子どもにとって、もしくは先生にとって、日常に埋め込まれた「こうすることが正しい」という行動を一旦停止して、違うモードを作り出す活動や実践になっているかどうかが、すごく重要です。

少し日常から離れた考え方で、いつもと違う人と、いつもと違うスタイルで話してみる。そんな「非日常性」の中で皆で考えてみることがワークショップの本質だと考えています。


——「非日常性」を作り出すことが重要とのことですが、子どもにとっても教員にとっても、毎日の授業は「日常」です。授業の中でワークショップのエッセンスを取り入れたとして、本当に「深い学び」につなげられるのかと焦る気持ちもあるのですが…

授業形式をおもしろくしようとする必要は必ずしもなくて、「あれ、何かいつもと違うぞ」という、その“何か”を作り出すことを意識してみてください。

そのためには先生ご自身も、自分たちが日頃何に捉われてしまっているのだろうかということを、少し立ち止まって考えてみたり、それを違うやり方に変えてみたりしてください。

私の知り合いで、黒板を板のようなもので封鎖した先生がいました。先生自身の実験魂とか遊び心、「ここは非日常の場なんだ!」という雰囲気を全身から放つような姿勢が、ワークショップの支えになってくるように思います。


——確かに、ちょっとした工夫で「いつもと違う」は作り出せそうです。

ただ、そもそも「深い学び」だけを起こしたいわけではないし、「深い学び」の方が偉いわけでもないという感覚を持つことも大切ではないでしょうか。

組織学習の考え方で、目の前の行動改善のサイクルを指す“シングルループ学習”と、前提の問い直しを含めた行動変容のサイクルを指す“ダブルループ学習”というものがあります。

ダブルループ学習を強調しすぎると、シングルループ学習が止まるというジレンマがあって。

シングルループ学習をしているから、たまにダブルループ学習が起こるわけで、つまり、「浅い学び」でも毎日コツコツ続ける中で、一定のスパンで「深い学び」が起きるということなんですよね。

このように、学びを多層的に捉えることが重要だと思うので、毎回の授業で「深い学び」が起きていないからといって焦る必要はないと思いますよ。


——つまり、「深い学び」の場を作りたいのなら、「浅い学び」も「深い学び」もどちらも大事で、重要なのはそのバランスだということでしょうか?

その通りです。「深い学び」を起こしたいからといって日々の授業の中で無理に揺さぶりをかけなきゃいけないわけでもないですし、かといってワークショップ的な要素やそこから生まれる深い学びを諦めていいということでもない。

できる範囲でどんどんやってみたらいいのではないかと思います。

私の高校時代の化学の先生は、よく「ノーベル賞をと獲れる生徒を育てる授業がしたい」と話していました。その先生の「この問題を問いても受験には受かるかもしれないが、ノーベル賞はとれない!」と苦悩する姿が、今も私の中にボディーブローのように残っているんです。

これって、私の中に「深い学び」が起きていたということだと思うんです。だから「一体何のために今この授業をやるのか」「なぜわざわざこの科目を時間をかけてやるのか」と自分に問うこと。

そして、生徒の意見を引き出すための良い「問い」を投げかけること。

先生自らがこの2つを往復する学習者になってどれだけ探究し、どれだけ真剣に日常の教科教育の場に結びつけるかで、自然と探究的な学び場に進化するのではないでしょうか。


その場に参加していること自体を、学習と捉える

——やはり「問い」は大切ですね。ただ、教室で教員や子どもが使う「問い」と、安斎さんがおっしゃる「問い」は少しイメージが違うように感じます。

疑問文になっていれば全て「問い」ではあるのですが、私は「問い」の答えがどこにあるのかで言葉の使い分けをしています。

先生が教えるべき内容があるときに、聞くことを通して生徒に「なるほど」と気づいてもらうタイプの問いかけが「発問」。それに対して、相手におそらく答えがあるだろうという想定で「教えてください」と疑問を投げかけるのが「質問」。

でもワークショップという場では、ファシリテーターが答えを知っているわけではなく、皆で一緒に考えないと答えにたどり着きません。そのきっかけとして投げかけるのが、私が探究している「問い」や「問いかけ」というものです。


——一緒に考えたいと思って問いかけても、うまく反応が返ってこない生徒がいて困っているのですが…

ワークショップ・ファシリテーターのマインドセットとして「学習を、参加として捉える」という考え方がとても重要です。

一方向的な学習を強要したり、一見、学んでいないように見える生徒に対してジャッジを下したりするのではなくて、その場に参加をしているということ自体を良しとする考え方ですね。

その場に参加しているというのは、必ずしもやる気を持ってめちゃくちゃワークで頑張っている姿勢を指すということではありません。「深い学び」による大きな変化が起こる過渡期で、なんかうまく言葉にならなくてグループワークで一言も発言できないときもあると思うんです。

変化を長い目で見て、「その場に参加をしていること自体が学習なんだ」と捉える感覚をワークショップ・ファシリテーターは重要視しています。

ただ、私の研究室で行った調査で分かったのは、学校の先生方はもう少し寛容に待つべきところで、かなり早い段階で子どもに支援の手を差し伸べたり、フィードバックをしてしまう傾向があるということです。


——確かに私もちょっと近視眼的になりがちかもしれません。子どもに「深い学び」が起きるためには教員のスタンスが大切なのですね。

その人のものの見方や、価値観が変わるといった「深い学び」が起きるのには、ある程度時間がかかります。そして、新しい世界の捉え方が生まれつつある過渡期には、それをうまく言語化できなかったり、自分の中で矛盾が生じて葛藤したり、説明のできないモヤモヤがあったりすると思うんです。

ですので、その人のこれまでの言行と一致しない何か不合理な行動を取ったり、大事に使ってきた言葉が変わったりといった、周囲にしてみ見れば理解しがたい変化が起きることもある。

「あのプロジェクト学習やってから、あいつなんか急に名刺持ち始めたよな」とか「バイト辞めちゃったよね」というのは、大学生によ良く聞かれる例です。

そんなときは、早めに対処をしたくなる気持ちを少しこらえて、寛容に待ってみると良いかもしれません。


——おもしろいですね。大人からみたらそれまで「いい子」だった子が、急に変なことをやり始める。周りから見たら「大丈夫か!?」と心配になるけれど、実はそうした行動は、その子の中で「深い学び」が起こりつつある兆しなのかもしれないということですよね。

そうです。これは本人も自覚していなかったりすることなので、周囲がこうした変化の兆しに目を向けることが大事なのかなと思います。

だから、短期的に見ると学んでいるように見えない生徒がネガティブなフィードバックを受けたり、排除されたりしないような安心安全な場を作ってあげる感覚が重要です。

私もワークショップの場で、面倒くさそうにしていてやる気が見えない人を相手にすることがありますが、信念として「自分はこれがしたい」という衝動を誰しも持っているものだと思っています。

あとは、どこでその衝動のスイッチが入るかだけですよね。衝動がない人間は存在しないので、機を見ながら、徹底して向き合うしかないと思っています。


——最後に、先生方にメッセージをお願いします。

私の中では、実は「問い」の他にメインテーマにしたいものがもう1つあって、それが「遊び」です。

「問い」と「遊び」というクリエイティビティの源泉をかけ合わせることで良い学びの場づくりができるのではないか。この2つが皆さんの現場でどのような意味を持つのか、というところに深く興味があり、非常に注目しているので、今後も先生方と一緒に探究していけるとうれしく思います。

〈取材・文=土佐塾チーム/写真=ご本人提供〉