5人寄れば文殊の知恵!フィンランドの先生たちが7年かけて編み上げた、特別支援の子どもたちのための教科書
現場をよく知る教員目線で、特別な支援を必要とする子どもたちにとって本当に学びやすい生物の教科書を作った5人のフィンランドの先生たちがいる。
フィンランドにおける特別支援教育は日本とは少し異なり、言語面を中心とした学習支援のニーズが高い。それというのもフィンランドの外国人人口比率は高く、2017年時点で人口の約7%。この比率は年々増えており、クラスの半数はフィンランド以外の国にルーツを持つ子どもたちという学校も珍しくないからだ。
仮にその子どもたちがフィンランド生まれだったとしても、両親が他国出身で家庭では母国語を使っていれば、フィンランド語が理解できないケースも多い。そうした子どもたちにとって最適な教科書を作ろうと、専門分野が異なる5人の先生たちがチームを組んで編み上げられたのが、フィンランド初のインクルーシブな教科書『BIOLOGIA(ビオロギア)』だ。
このBIOLOGIAについて、制作に関わった生物学の先生であるEevaさんと、特別支援教育の先生であるReaさんに話を聞いた。
特別支援教育の担当教諭として、2020年よりHelsingin kielilukio(ヘルシンキ国際高校)に勤務。教員歴23年の、特別支援教育のスペシャリスト。
Eeva-Liisa Ryhänen(エーヴァ-リーサ・リュハネン)さん | 写真左
生物学者・教員・ノンフィクション作家というマルチな顔を持つ、教員歴20年以上のベテラン教諭。長年、生物学や地理学を教えてきた。現在はヘルシンキの小規模校で授業を持つ他、学生相談やカウンセリングなども行っている。
発端は、現場の先生たちからの声
——ReaさんとEevaさんは、教員5人のチームを組んで特別な支援を必要とする子どもたち向けの教科書「BIOLOGIA」を作ったそうですね。どういった経緯で教科書作りが始まったのでしょうか?
ことの発端は私です。私は生物学者であり教員でもある傍ら、ノンフィクション作家としても活動していて、これまでに科学や生物学の分野で学校向けや一般向けにさまざまな本を手がけてきました。そんな私に約10年前、フィンランドの教育庁から新しいカリキュラム作りのワーキングメンバーとして声が掛かりました。
そのご縁があって、その後「特別な支援が必要な子どもたちのために新しい教科書を作ることに興味があるか」との打診を受けたのです。数日考えた末に、「平易な言葉で書かれた生物の教科書を作るのはかなりの挑戦だ」と感じて引き受けることにしたというわけです。
実際に難易度は高く、BIOLOGIAをまとめるのに7年かかりました。
——フィンランド教育庁はなぜ特別な教科書を必要としていたのでしょうか?
教育庁が特別支援教育の先生たちに授業で必要なものは何か調査したところ、多くの先生たちが「簡単で文量が多くなく、でも主要なポイントが押さえられていて良い図表が含まれた教科書」が必要だと答えました。
私もそうでしたが、語学を中心とした学習支援のニーズが高いフィンランドの特別支援教育の現場では、そうした子どもたちのために編集された特別な教科書が本当に必要とされていたのです。
出版社が発行する本には易しい言葉を使って書かれたものもありましたが、それらは特別な支援を必要とする子どもたちのことを考えて編集されたものではありませんでした。
私たちがまとめたBIOLOGIAは、特別な支援が必要な子どもたち向けに考え抜かれて編纂されたフィンランド初の教科書だったのです。
——BIOLOGIAの制作はどのように進めていったのでしょうか?
まずは教員によるワーキンググループを作ろうと考えて、私と同じく生物学や地理を教える教員2人と特別支援教育を専門とするRea、そしてフィンランド語を第二言語として教える資格を持つ同僚を誘いました。
異なる専門分野の先生たちでグループを編成するという方法で、ユニークな教科書を作ろうとしたのです。
このメンバーで本を作り始めたとき、私はすぐに自分の役割を理解しました。というのも、Eevaを含む生物学を教える3人の先生たちは、普段は通常クラスの生徒たちを教えていますが、そのときと同じ説明の仕方をしていては特別支援を必要とする子どもたちには通じません。フィンランド語そのものの理解が浅い子どもたちにとっては特に、もっとシンプルな方法でものごとを伝える必要がありました。
特別支援の子どもたちにとって明確で使いやすいものにするためには、なるべく少ない文量で、難しい用語を使うことなく明確に説明する必要があることや、1ページにあまり多くの情報を詰めこみ過ぎてはいけないこと、また、レイアウトもシンプルであった方がいいことなど、長年特別な支援を必要とする子どもたちに向き合ってきた私なりの視点でアドバイスしながら、皆で生物学をシンプルに伝える方法を一緒に見つけていきました。
生物学者は、自分たちの専門に深く入り込み過ぎてしまうが故に、教員であっても一般の人や生徒たちが自分たちと同じように理解できていないことに気づかない人もいます。
だからこそ特別支援の知見を持つReaとフィンランド語の先生が関わってくれていたことが、このBIOLOGIAを特別な教科書にしてくれました。
極力シンプル・易しく・明確に。5人の知見が生きた唯一無二の教科書
——具体的にBIOLOGIAではどのような工夫がされているのか教えてください。
まず通常の教科書と比べて文字のサイズを大きくして行間を広めにしています。そして、テキストの配置は2列の段組みではなく1列にしました。これだけで特別支援の子どもたちにとってはグッと読みやすくなります。
また全体の構成としては、まずは説明文があり、その合間合間にそれまでの内容を理解できているかどうかをチェックするための質問を差し込んでいます。
なぜこのようにしたかというと、特別支援を必要とする多くの子どもたちにとって、最初に例えば4〜5ページを読んでから設問に答えるような展開は非常にハードルが高いからです。
そこで、最初に少量の簡単なテキストを読んでから質問に答え、また少量読んでは質問に答え…というスモールステップを繰り返していくような形にしました。そして各章の最後には、子どもたちと先生が一緒に取り組めるタスクを難易度別に掲載してあります。
BIOLOGIAで最も特徴的なのが、この文章の合間にこまめに差し込まれた質問です。こうした構成は通常の教科書ではあまり見られません。これらの質問は、特別支援が必要な子にとっては本文を理解するのに役立つ本当に良い工夫だと思いました。
——生物学を教える教員目線だけでは思いつかないアイデアで、まさに相乗効果から生まれた工夫ですね。他にはどんなことがありますか?
文章や構成上の工夫に加えて、本文を補完するための写真や図表も非常に重要でした。文章を読むことが難しい生徒にとっては、写真や図表が本文の内容を伝えるための手助けとして働くからです。
BIOLOGIAの全体像を俯瞰しながら、どのような要素を写真や図表で見せたいかを考えていきました。思うような素材が見つからないことも多かったので、イラストレーターさんにお願いしてこの教科書用に新規に描き起こしていただいたイラストもたくさんあります。
通常の、特に地理の教科書では、同じページに、本文の他にも地図や写真、イラストが散りばめられ、またそれらの図を説明するためのテキストボックスも添えられていたりします。
情報量が多いことは通常学級の生徒にとっては印象的ですが、学習困難を抱える生徒にとっては何を見るべきなのかが分からず、全ての情報を追うことが難しいのです。
BIOLOGIAの地図は、見開き2ページを丸ごと使い、そこに何を載せるかは吟味してかなり簡素化させました。テキストは極力少なくして、色は明瞭なものを使い、色の意味にも注釈しています。
通常は一緒に記載されることが多い気象や気候に関する説明も必要最低限に抑え、その他の余計な情報は一切ありません。フィンランドの通常の教科書と比較してBIOLOGIAがいかにシンプルなのかが、ぱっと見ても分かるレイアウトになっています。
——BIOLOGIAでは言葉やコンテンツを簡略化しているとのことですが、カリキュラムの内容を一部削ぎ落としていたりもするのでしょうか?
教育庁のカリキュラムに基づいて、重要なことは全て押さえられるように編集しています。私たちが言う簡略化とは、ものごとを説明するために使う言葉をシンプルなものにしたという意味で、例えば生物の教科書に多い専門用語はまったく使わずに、なるべく易しいフィンランド語で説明しています。
また各章の終わりに載せているちょっとした観察のタスクも、なるべく簡単なものを選んでいます。
先生同士チームを組んでの協働作業は、素敵な学び合いのプロセス
——この教科書を実際に使っている子どもたちの反応はどうですか?
私が受け持っていた10人の子どもたちにBIOLOGIAを使って授業をしたところ、彼らの集中力が向上したように感じられました。きっと内容がシンプルかつ平易だったからでしょう。自分が今読んでいる内容をしっかり理解できるからこそ学びやすく、より良い集中ができたのだと思います。
子どもたちはBIOLOGIAに載っている質問やタスクも楽しんでいて、もっとやりたがり、生物学に対する姿勢が前向きになったような気がします。
また、特別支援の子どもたちといってもさまざまで、非常に厳しい学習問題を抱えている子もいれば、問題があるのは行動態度だけで頭の良い生徒もいます。それぞれの子に適したタスクを選べるように、異なるレベルのタスクを用意しておいたことも効果的でした。
私も現在、BIOLOGIAを通常学級の生徒たちと使っていますが、学習困難がない生徒たちに対しても深いことを補足しながら使うことができるので、とても使いやすく役立っています。
——特別な支援を必要とする子どもたちに限らず、通常学級で学ぶ子どもたちも、先生たちも、皆が使えるインクルーシブな教科書が誕生したというわけですね。最後に、この7年間のプロジェクトを通して感じたことについて教えてください。
複数人の専門家がグループで一緒に仕事をするというこのBIOLOGIA制作のプロジェクトは、教員である私たちにとっても良い学びのプロセスでした。それぞれの視点から、どのようにすれば生物学をより読みやすく、より理解しやすくすることができるかを考える作業はとても学びに溢れ、意義のあるものでした。
何よりも、この5人と年に何度も顔を合わせてコミュニケーションを取りながら進める作業は本当に楽しいものでした。実は、教育庁からの報酬は雀の涙程度だったのですが、それでも7年間も続けてこられたのは、一緒にやっていてとても楽しかったからです。BIOLOGIA制作の過程で仕事仲間から友人になれたことが、本当に素敵なプレゼントでした。
そうですね。この7年間を経て、ものごとを考える上での新しい視点を得られたと思います。私は生物学についてもっと詳しくなりましたし、他のメンバーは特別支援が必要な子どもたちに教える際の視点を知ったという意味では、お互いにたくさんのことを学び合える取り組みでした。
それに、Eevaが言うように本当に楽しかったんですよね。普通は先生たちが教科書を書く際は、一人で孤独に自宅で執筆することが多いのですが、私たちはときには小グループに分かれながらも、いつも一緒に働くことを楽しんでいました。そうしたひとときが一番大切なことだったような気がします。
今回、この取り組みを紹介してくださった教育コンサルタント・徳留宏紀さんにもコメントをいただきました!徳留さんは2023年末までヘルシンキ国際高校に勤務しており、Reaさんの同僚でもありました。
——今回のBIOLOGIA制作の事例は、日本でどのように参考にできるでしょうか?
BIOLOGIA制作は、国が先生たちのチームにインクルーシブな教科書作りを依頼するという流れで実現したものではありますが、その流れを生み出したのは現場の先生たちによる声でした。先生たちが「こんなことに困っている」という声を発信したことが、BIOLOGIAという新しい教材の選択肢を生み出しました。
つまり、それだけフィンランドの先生たちは日頃から高い当事者意識を持って教育に向き合っているということなのだと感じます。
日本にも、もしかしたら同様の取り組みをされている先生方がいらっしゃるかもしれませんが、「国や教育委員会が動いてくれたらいいのに」などと、どこか人任せにしている部分はないでしょうか。
もっと学校現場にいる先生方からの発信で、課題解決に向けたアクションや新しい選択肢を生み出していけると思いますし、今回のBIOLOGIA制作で意義深いのは、やはりいろいろな分野のスペシャリストが集まり、チームを組んだという点です。
いろいろな教科の先生方が協働して新しい選択肢を生み出すというアプローチも参考にできるのではないでしょうか。
〈取材・文:先生の学校編集部/写真:ご本人提供〉