1. TOPページ
  2. 読む
  3. 「不登校」という言葉、なくしませんか?フリースクール勤務で見つけた、子どもが「心・・・

「不登校」という言葉、なくしませんか?フリースクール勤務で見つけた、子どもが「心のエネルギー」を取り戻すために教員ができること

「不登校」という言葉、なくしませんか?フリースクール勤務で見つけた、子どもが「心のエネルギー」を取り戻すために教員ができること

はじめまして。安曇健太と申します。
苗字が珍しい漢字なので読めない方もいらっしゃるかもしれません。「あずみ」と読みます。

私は現在、通信制高校で教員をしています。

通信制高校では、実にバラエティーに富んだ素直で真面目な子どもたちに出会います。私は、子どもたちと面談をするのがとにかく好きで、いつも楽しく話ができてありがたい限りなのですが、子どもたちの「疲れている」もしくは「しんどい」姿を目にすることが多いのも事実です。

通信制高校ではその出現率はもしかしたら少し高いのかもしれませんが、そのような姿は、おそらくどの学校でも少なからず見受けられるのではないでしょうか。

このような状況を、私は「心のエネルギー」という言葉を使い、「心のエネルギーが少し落ちている」「心のエネルギーがたまってきて元気そう」と表現しています。この表現は、生徒や保護者の方からも概ね「しっくりくる」と言われます。

では、この「心のエネルギー」を取り戻すにはどのようなことが必要なのでしょうか。

この記事では、「不登校生を出さない」という目的ではなく、「不登校生(と呼ばれる状態の子ども)にはどのようなサポートが必要なのか?」について考えていきます。

写真:安曇 健太(あずみ けんた)さん
安曇 健太(あずみ けんた)さん
クラーク記念国際高等学校CLARK SMART教諭/学習心理支援カウンセラー

総合広告代理店・学習塾運営企業で勤務し、クラーク記念国際高等学校に入職。同時に公益財団法人こども教育支援財団が運営する東京大志学園というフリースクールに出向となり、「時間割のあるフリースクール」で小中学生と共に学ぶ。2019年からクラーク記念国際高等学校に戻り、高校教員のキャリアがスタートすると思いきや、新しい学びのカタチをつくる新コースの立ち上げを担い、責任者となる。
のべ500名以上の小中高生を支援し、生徒たちの心のエネルギーを取り戻すには「子どもが教育に合わせるのではなく、教育が子どもに合わせてカタチを変える」ことが大切だと実感。教員というより生徒の「コーチ」として、隣で伴走する日々を過ごしている。北海道函館市出身、一児の父。


「不登校」というレッテルが、不要な不安を抱かせている

私の教員生活は、小中学生が通うフリースクールからスタートしました。

フリースクールとは、何らかの理由により学校に登校しづらくなった生徒が通う、家庭でも学校でもない第三の場所です。そこに通う生徒は、不登校状態ということになります。

私はフリースクールに通っている目の前の子どもたちを見て、「不登校」という言葉に違和感を持たずにはいられませんでした。なぜなら生徒たちはフリースクールに「通っている」からです。

「学校」という場所に行っていないだけで「登校」していることになるのではないか。フリースクールには毎日朝から登校しているし、この「不登校」という呼び名には一体何の意味があるのか。

もはや時代に即していないのではないかと、いつもモヤモヤしていました。

ここでは、「不登校」の定義について話したいわけではないのですが、「不登校」というレッテルを貼ることが児童生徒・保護者に不要な不安を抱かせる大きな要因になっていると思うのです。本人や保護者は「不登校」という状態を、毎朝目が覚めた瞬間から感じているということを忘れてはいけません。

現在の私は通信制高校の教員となり、フリースクールの現場を離れていますが、教職に就く者として、いつもこのことを忘れないようにしなければならないと思っています。

私自身、この「フリースクールの先生」を経験できたことが教員生活の全ての土台になっていると感じています。


「アクセル」を踏ませるより、一緒に「ブレーキ」をかけられる存在でいること

フリースクールや通信制高校では年度途中で入会・転入学してくる小中学生や高校生と出会います。私はその児童生徒あるいは保護者の方に必ず聞く3つの質問があります。

①自分の性格は真面目だと思いますか?

②規範意識(ルールを守る気持ち)は強いですか?

(例えば…)
・車が全然来ていないことが確認できる道路の赤信号を、無視して渡ることができますか?
・家族で出かけるときに、家族の誰かが時間を守れない可能性が出てきたらイライラしますか?

③完璧主義な部分があると思いますか?

(例えば…)
・1時間目に遅刻してしまうという状況になってしまったら、2時間目から行くなんてできないと思いますか?
・夏休みに出ていた宿題が全部終わっていない、もしくは自分の中で取り組みに対して100点だと感じられないと、休み明けの登校が苦痛に感じますか?


皆さんの答えはどうでしょうか?

大人になると特に最初の質問には戸惑うかもしれませんし、他の質問は、ケースバイケースかもしれません。

特徴的なのは、私が出会ってきた児童生徒はこの3つの質問に、ほとんどYESと答えます。

例えば、規範意識が強い生徒は、授業中に騒がしくしてしまう他の生徒に対して理解ができず、ストレスを感じてしまいます。もちろん聴覚優位な児童生徒であれば、なおさらにしんどいです。

真面目さや規範意識の高さ、完璧主義の強さは負の感情の「アクセル」になっている場合があります。「ちゃんとしよう」「もっとこうだったらいいのに」「こうしないとダメだ」というストレスを加速させます。

もちろんこれは年齢、経験年数と共に緩和していくものですが、早いうちからこの負の感情が加速する状況に「ブレーキ」をかけられるようになると気持ちは楽になります。

ここで言うブレーキとは「そんなことやめた方がいいよ」「そんな風に考えるのはいけないよ」など、何かをストップすることを意味しません。それはむしろ逆効果です。

即効性のある魔法とはいきませんが、家族を含む周囲の大人が丁寧に声をかけてあげること、本人の考えを否定せず認めてあげることがブレーキになり得ます。

「そんな風に考えてたんだね」「その気持ちを伝えてくれてありがとう」「先生もそう感じることある!一緒だね!」などの言葉が本人にとって実はとても安心する一言で、むしろ一旦立ち止まって自己理解が始まったり、周囲に目を向け始めたり、こちらの話しを聞いてくれるようになったりします。

状況は簡単には変えられなくても、自分に共感し、理解してくれる人がいると感じられることは誰にとっても心強いですよね。


ここまでお読みいただいた方の中には、「そんなこと言っても社会に出たら多少の理不尽は我慢しないと…」とお思いになる方がいらっしゃるかもしれません。

そうであるならば、そんな社会の方を何とかしませんか?

私は、目の前にいる生徒たちに「自分と同じような考え、感じ方をする人は世の中にたくさんいる。だから自分がしてもらったようにその人たちを受け入れて、思いやって、一緒に前に進める人になってほしい」と伝えてきました。

多様性とは、そんな優しさや思いやりが前提にあって初めて広がるものだと信じています。そんな人が一人でも多くなれば、社会は少しずつ変わっていくのではないでしょうか。そんな思いで私は生徒と一緒に学んでいます。

それと忘れてはならないのは、真面目さ・規範意識の高さ・完璧主義さはどれも美しいもので、それを備えている本人は社会ではとても素敵な人として受け入れられるはずだということです。


見守られている安心感があれば、子どもは自然と前に進

先ほど、「社会に出たら多少の理不尽は我慢しないと…」という、おそらく多くの方が抱く気持ちを代弁させていただきました。

私たち大人は、子どもたちにとって「少しだけ前を進んでいる」、「ほんの少しだけ社会を見る目が養われている」存在であるのは確かです。そうすると、目の前の子どもたちの将来が予見できるような気になってしまいます。

だからこそ、「社会に出たら多少の理不尽は我慢しないと…」と、思わず言いたくなってしまうことがあります。以前の私は、このようなことを言ってしまう大人でした。

そんな私は、フリースクールの生徒と一緒に過ごす日々の中で、少しずつ変わってきたのです。

情報社会となった現代はとても複雑で、10年後には想像もできない新しいテクノロジーが生まれていることでしょう。長年、教育現場では「〇〇できないと社会で通用しないよ」などの声かけに代表される「不安喚起」をすることが多かった気がしています。

しかし、いたずらな不安喚起はほとんど意味がなく、生徒が疲弊するだけです。

そもそも社会変化の予見などは極めて難しいということを、教員も大人も理解する必要があると私自身は強く感じています。たとえ今は学校に毎日通っていないとしても、それが社会で活躍できないという理由にはなりません。

私が現在担任をしている高校生たちは、通信制高校のメリットを生かし、自分のペースで学校に登校しています。毎日登校する子もいれば、週1回の生徒もいます。

フリースクールでも同様でした。それでも進級・卒業は叶えられるし、こちらがしっかりサポートし続ければ、それぞれの進路を決められる生徒がほとんどです。

勤務している通信制高校は、大学進学にも力を入れている高校ですので、例年およそ70%の生徒が四年制大学へ現役で進学します。週1回ペースで登校する生徒も、最初から通信制高校に在籍している生徒もです。

通信制高校はそれぞれ教育カリキュラムも特色があり、画一的な学びではありません。しかし、卒業後の進路は全日制高校と何ら変わらない結果が出ます。

通信制高校はサポートも手厚いので、進路選択として安心して選べる場所だということを知っていただければとてもうれしいです。


週1回登校するペースの生徒だと、担任として面談ができるチャンスは年間50回もありません。3年間全て担任できたとしても、おそらく100回くらい面談したらもう進路を決めていくようなシーズンに入ります。

面談時の表情、声の抑揚やトーンなどで把握できる情報は無数にありますが、逆にその時間以外の本人の状況はほとんど分からないものだと理解しなければなりません。もちろんその毎週1回の面談に全力を尽くし、会わない期間の計画を立て、学習ペースを相談するなど、文字通り二人三脚で歩んでいきます。

教員と会わない時間の生活に対しては、生徒自身に裁量があり、可処分時間をどう使うかも生徒次第です。この状況は教員としては不安でたまりませんが、日々相当の忍耐強さを試されていると感じています。

子どもを「信じる」ことが実は一番の近道でもっとも難しいことだということです。

人格を信じ、可能性を信じ、たとえ今目の前にいる子どもの状態が良好とは言えずとも、この状態が永遠に続くなんてことはあり得ないと、どのくらい信じ切れるかにかかっていると言っても言い過ぎではありません。

フリースクールでも高校でも、私は保護者の皆さんに「お子様のこと、ほっといてあげてください」とよく伝えています。もちろん放棄する、見放すということではありません。

学びについてサポートするのは教員の役目ですし、不安喚起を手段とせずとも常に児童生徒の可能性や才能がどこにあるか一緒に探索できる声かけを得意とするのも教員です。

見守られている安心感があれば、子どもは自然と前に進みます(この自己成長力も信じられるかということですね)。社会に対して、少しでも前向きになれるよう働きかけることが大切ではないでしょうか。


自分で自分のことを「まんざらでもない」と思えるために

子どもを信じ続けた先で、私は子どもたちにどうなってほしいのか。そんなことを考え続けていたフリースクール時代に、一つの言葉に出会いました。

「子どもが自分のことを『まんざらでもないな』と実感できるかどうかが大切」

フリースクールで開催した教育シンポジウムにご登壇いただいた、玉川大学教職大学院教授の田原俊司先生の言葉です。

この「まんざらでもない」という言葉が私は好きです。意味を調べると、「それほど悪くない」転じて「結構いい」という状態を指すとあります。絶妙にバランスのいい言葉ではないでしょうか。

「まんざらでもない」と思える状態を目指すとき、私はいつも「マズローの欲求5段階説」を思い浮かべます。


日本に暮らしていると、1段階目の生理的欲求と2段階目の安全欲求はある程度満たされることが多いです。そうなると、3段階目の社会的欲求と4段階目の承認欲求を満たせるかどうかが重要になってきます(5段階目の自己実現欲求はまた別のアプローチが必要です)。

社会的欲求より高次のものは精神的欲求と呼ばれ、人間の内面の充足が求められます。また、社会的欲求は所属欲求とも言われ、集団や組織に属し、孤独や寂しさを感じないようにすることだとされています。

承認欲求とは、SNSに「いいね」を求める昨今の若者心理として語られることも多いですが、実はこれには2段階あり、「いいね」を求めるのは低位の承認欲求(他者承認)になります。そして高位の承認欲求とは「自分で自分を承認できるかどうか」というものです。

まさに自分のことを「まんざらでもない」と感じ取れるかということです。それには、「承認のシャワー」を浴び続けることが肝心です。


子育てや人材育成において「褒める」がいいのか、「叱る」がいいのかが、よく議論されます。

もちろんどちらも大切ですが、この「承認のシャワー」は「褒める」の中に含んで語られているような気がしています。私個人としては、生徒に対しては褒める(承認する機会を多く持つ)ことのみで構わないと考えています。

例えば、もし子どもが学校に行っていない状態なのであれば、そもそも毎朝目が覚める瞬間から気持ちがすり減っている状態であり、それ以上しんどい思いをさせる必要はないのです。もちろんこれは学校に行っている・行っていないに関わらずです。

学校やフリースクールも含めた広い意味での子どもの教育機関と、それぞれの家庭が連携して「社会的欲求」→「他者からの承認欲求」→「自己への承認欲求」という3段階を順に満たしていくことができると子どもは「心のエネルギー」を満たしていきます

そういった意味でも、学校だけでは満たしきれない欲求が見え隠れする児童生徒には、フリースクールや通信制高等学校なども一つの選択肢として、先生方や保護者の方にとって身近な存在に受け取ってもらえるといいなと思います。

「学校に通うこと」「授業を受けること」「進路を決めること」、これらが「目的」にとらわれてしまいがちな世の中ですが、一番大切な「目的」は、子どもが幸せに育ってくれることです。

この記事が皆さんの心を少しでも軽くし、何かのヒントになったらとてもうれしいです。